良くも悪くも女性にはリスクを取らず、小さく均衡しがちな傾向があるとよくいわれる。そんな社会観念の枠に自分をはめ込みたくないと女性創業者として積極経営を進めてきた。
就職した大手エレクトロニクスメーカーでは、海外マーケティングに従事するが仕事そのものには物足りなかった。今までも、まともに勉強したという経験はない。会社でも、楽をしていいのだろうか。「このまま取り残されてしまう。マーケティングをもっと勉強したい。論理的思考力も磨きたい」という思いが込み上げてきた。ほどなく、「自分の中のバランスを取るためにも、海外の大学院で本格的に勉強し直したい」と海外留学への準備に乗り出す。小中学校が海外という帰国子女でもあり「自分のルーツは、やはり海外にある」という意識が強かった。
ビジネススクールは、ハーバートだけでなくケロッグにも合格。いずれもランキングではトップ争いを繰り広げる名門校だ。「ハーバードは自分に合わない。だからこそ、行ってみたい。自分を鍛えるためのMBA留学なのだから」と。講義での英語力は心配していなかった。ビジネスの知識や経験はないものの、日本に対する評価が高かったこともあり、何とかクリアできるのではと思い込んでいた。
だが、現実は違った。入学後、しばらくはクラスメートが何を言っているのかまったく見当がつかなかった。膨大な勉強量、クラスメートとの交流もこなさなければならないとあって、火がついたような毎日を過ごした。少し慣れてきたところで、彼らの発言がようやく把握できるようになった。「もうめちゃくちゃ。思いついたことを必死に言っているだけ」。そう感じたら、気楽になれた。
キャリアの方向性を決めるうえでは、「米国人学生の影響が大きかった」。大組織に所属していても、その歯車に乗っているだけと見る彼らの考え方は自分の起業観、人生観を180度変えるものであったという。しかも、2年間で500ものケーススタディーを学ぶうちに、ベンチャー経営に対する興味も込み上げていた。「30代には、社会に貢献できる事業をやりたい。20代は、自分への投資としてさらに鍛練を続ける」。そう決意するのは、自然な流れであった。
ポストMBAでの選択は悩んだが、起業へのステップと位置付け、日本に進出したばかりのコンサルティングファームに転職した。ビジネススクールでのノウハウが生きる、世界的には有名だが日本では知名度は低く立ち上げの経験も積めるのではと思った。
計画通り、30歳には株式会社ピープル・フォーカス・コンサルティング(旧社名AYインターナショナル)を2人で起業。「いきなり何十人も雇うリスクは背負わない。でも、失敗しても失うものはないはず」。事業計画は、留学中に描いていた。優れた日本的経営のノウハウを世界に発信というビジネスモデルだった。
経営は試行錯誤の連続であった。すでに日本ブームは消えていただけに外資系企業や海外のビジネススクールの反応は冷めていた。その後、「今の時代が求める経営手法は何かを見極めれるべき」と方向転換。やりたいことが多いなかから、ようやくここ数年「組織開発」というテーマに絞り込めるようになった。
組織開発とは環境変化への適応や組織人の創意と意欲の向上などを狙いとして構築された理論・技法・活動などの総称。人材開発と組織開発に焦点を当てたさまざまなサービス提供が事業の柱に、海外の先進的研修カリキュラムや最新の研究動向を反映したプログラムを展開する。「ファシリテーション」という概念の浸透にも力を注いできた。
「会社のファシリテーターでありたい。主役である社員が協働することで実力以上のものを発揮する。私は、そのためのサポーター」と自覚する。
組織開発は日本では未開拓なものの、大いに期待されている分野だ。「エバンジェリストとして、この分野の啓蒙を図り、リーディングカンパニーとして確立したい。社会貢献にもつながるはず」と意欲を燃やす。
「3年周期、あまり先は考えない。3年後の自分のビジョンを常に思い描く。5年、10年後という構想力は持てない。でも3年というスパンなら、狙いをはずしたことはない」
自分の成長だけでなく、組織の成長が楽しくたまらない。もちろん、自社だけでなく、顧客の成長も。そのために自分は何をすべきかを認識している。