「いつも幸せでニコニコしていられる一生を自分の力で生きたい」。小学校の卒業アルバムに記した一文だが、その思いは今も変らない。
大学の頃から、自分の生き方を明確に描いていた。「20代で海外で生活する。30代で独立して国際ビジネスにかかわる仕事をしたい」。
大学を卒業後、選んだ職業はフィールドSE。「ビジネスコンサルティングのできるSEになりたい」と入社の際には言い切った。もともとは心理学、人間学に興味があったが今だからこそできるプロ志向の高い仕事に携わりたいと考えた。
周囲は技術畑。課では初めての女性。珍しい、面白い存在という見方をされた。それでも、VIPクライアントである総合商社のシステム開発をはじめビッグプロジェクトに参画する機会を得た。ただ、3年ほど経過した頃から急激にテンションが落ちた。「そろそろ海外での長期生活を経験しなければ・・・」。
上司が紹介してくれたのは、富士通の提唱によって設立されたJAIMSが推進する実践的なグローバルビジネスプログラムAMP(American Management Program)。ハワイを舞台に、実用的な英語力と優れた国際ビジネス感覚を半年間学んだ。
しかし、入社以来「いつかはMBAを取得したい」というイメージがあっただけに、AMPだけではどうしても満足できれなかった。「海外駐在か、自費でMBA留学を」と人事部にストレートに要望。「あと1年待ってもらえれば」という会社側の回答。「今すぐにでも」という自分の気持ちは抑えられなかった。
留学先として決めたのは、サンダーバード経営大学院。ICMPで学んでいた仲間がいずれも「国際ビジネスならこの大学」と勧めてくれた。ビジネスマンの素養、語学、文化を学ぶ三位一体のプログラム、オープンな雰囲気、多国籍な環境、すべてが新鮮に映った。
実際、サンダーバードでの1年は刺激の連続であった。「こんな生き方もあるのか。とにかく自分で選ぶ、自分で責任を持つことを徹底する。しかも、自分の将来をいつも明るく展望している」。学友の強烈な主体性、考え抜く力、ポジティブなマインドに圧倒された。
日本では出る杭は打たれるWin-Loseの関係。自分の幸せは他人の犠牲の上に成り立つものという意識があったが、ここではすぐに否定された。「Win-Winでいいじゃないか」と。国籍、バックグランドを越えて共有した価値観は、自分の生き方を変えた。
ポストMBAには2つのオプションがあった。第1に、コンサルティングファームでネットワークや能力を形成するという選択。第2には、米国にこのまま残るという選択。キャリアの視点を抜きにすれば後者に魅力を感じた。だが、困難な道を選ぶのが好きという性格もあってか、「あの日本に戻り、どれだけ大変か飛び込んでみよう」と帰国の途についた。
CIをベースとする経営コンサルティング会社に転職。そこで現在のHRインスティテュート(HRI)代表である野口吉昭氏と出会い、数年後には新会社を共同設立した。
HRIは理論偏重でない「使えるコンサルティング」「実効性のある研修」を柱とするコンサルティンググループ。独自に開発した「ノウハウドゥハウ」や「ワークアウト」をコンセプトとするプログラムは、数多くの企業で採用され優れた実績をあげた。新会社は成長曲線を描き続けた。
だが、事業はどうしても国内中心であっただけに、ある時期抑え難い葛藤をおぼえた。「このまま日本に居ては念願の米国のグリーンカードを確保できなくなる。いつの日にか米国で事業を立ち上げたいという思いもある。HRIにとどまるか、米国での新たな展開にかけるか」。30代でのキャリア形成が微妙に揺れた。
結局、HRIを選んだ。「自分が何をしたかいかではなく、HRIが何をすべきかを大切にしていきたい」。意識を切り替えた時からHRIへの取り組みはさらに本格化した。
40代を迎えた今も、ビジネスに傾けるエネルギーは変らない。むしろ、以前より増している。その源にあるのが、「企業収益を海外の恵まれない子供たちの支援活動に生かしたい」という思いだ。
HRIではビジョンハウス・プログラムを始動。2004年中にはベトナムに学校を建設、現地でパートナーを募り、教育普及に努めていく。クライアント企業のボランティアも仰ぎながら、今後はアジア、アフリカ各国へと動きを広げていきたいという。
「ネットワーク、お金、学力、キャリア。自分が持っているものはすべて与えられたもの。ここに存在している自分自身も。与えられた人は他の人とそのギフト(贈り物)をシェアするべき。天は何ゆえに与えるのか。シェアすることを期待しているからでは」
自分に与えられた経験や能力というギフトをどう活かすのか、利益をどう使うのか、が問われている。使命とも言える強い思いを抱いている。