「MBA(経営学修士)を取得してみたらどうか」。会社の同僚が、教えてくれたMBAの存在。生まれて初めて知った言葉であった。
大学を卒業後、本田技研工業に入社。総務・人事系の部門に在籍し積極的に取り組んでいたが、大企業ならではの細分化された業務に知的好奇心、挑戦欲に足るだけの場が与えられていないのではという思いがいつしか募っていた。「このままでは将来のキャリアが不安だ」。国家上級職や司法試験の受験も考え始めた。同僚からのアドバイスはそのころの話だ。
「やはり、導かれるものがあったのかも知れない」。英語を勉強して海外校へとも考えたが、日常業務が多忙で準備が整わない。そんな折、日本経済新聞でKBSの広告を偶然見つけ、受験を即決。会社には企業派遣制度はなかったため、休職という特例扱いを願い出た。
「KBSではとにかく忙しかった。膨大なケースに追われた。1年間は家、学校、図書館を歩き回るだけの日々であったが、これまで自分が望んでいたものに出合えたという充実感を味わえた」。一つひとつのケースが非定型であり、知的刺激感を大いに満喫できたという。
MBA取得後には、復職するつもりでいた。「KBSで身に付けた国際的、機能横断的な理解力を発揮して北米事業戦略の立案に携わりたい」。本社とのミーティングは何度か設けられたが、社内でのキャリアチャンジは受け入れられなかった。「日本の大企業の人事制度を理解しきれていなかったかもしれない。それでも、自己投資してせっかくMBAで学んだことを何とか最大限に活用できるキャリアを模索したかった」と辞表を提出。
2カ月間は失業状態で英語学校に通う。MBAホルダーとして技量を発揮する機会は思いがけずやってきた。KBSの同期生から入社先のコンサルティングファーム、アーサーDリトルの面接に誘われた。「1年半で辞めて、米国の経営大学院博士課程に行くつもりです。それでも採用してもらえるならば」。本田時代からいつか米国へ、という思いが強かっただけにストレートに切り出した。結局、アーサーDリトルは意向を理解してくれ、有期契約社員として採用された。
「ものすごく密度の濃い経験ができた。大企業での10年間分に匹敵する。KBSでのケースが半分役立ったが、残り半分はもっとドロドロとした部分を学んだ」。コン サルタントがいかに知的負荷、体力負荷の大きい仕事であるか痛感した。しかも、並 行して博士課程の準備を進めていたこともあり、まさに『走りっ放しの期間』であったと振り返る。
1年3カ月のコンサルティング経験を経て、公言通り渡米。オハイオ州立大学経営大学院博士課程へと進んだ。オハイオ州にはホンダの工場があり、大学はかなり厚遇してくれた。しかも、経営戦略の重鎮として知られるJバーニー教授の指導を受けられることも決まり、胸は高まるものがあった。
「Jバーニー教授は理論家で、近寄り難い存在を醸し出していたものの、天才的なひらめきにはただただ敬服するばかりであった」。それでも、5年に渡る指導の末に同氏の著書 「企業戦略論(上・中・下)」の日本語翻訳の許諾を受けるほど親密な関係を築けた。
博士課程在学中の98年、欧米の大学との就職活動も大詰めのある日、KBSの教授から思わぬ電話が入った。「自分の後に日本に戻ってこないか」と誘われた。米国のビジネススクールの教授に着任するつもりでいただけに、『判断不能な状態』が続いた。「競争論的な視点からいえば、英語による経営教育ができる君の能力を日本で発揮すべきでは」。決め手となったのは、Jバーニー教授の助言であった。
KBSには、99年に講師として里帰り。以来、日本におけるMBA教育、ビジネス教育の拡大に全力を傾けている。同時に院生の良き『兄貴分』として、彼らのキャリアパスも指南する。「理論と実務にバランス良く精通したキャリアパスを持つ人材を育成していきたい」。さらに高い知的刺激を求めるよう院生には、「修士課程で満足することなく博士課程にも進め」とハッパをかけるほどだ。
KBSと並行して、休日にはADL時代の上司である梅田望夫氏が立ち上げた戦略コンサルティング会社、ミューズアソシエーツ社(米カリフォルニア州)の業務支援を続けているが、いずれは自分の会社を立ち上げたいという。ビジネススクールの教授と社長業の2足のわらじを思い描いている。「まだまだ日本には、MBA教育・研究を担う人材が圧倒的に不足している」。バランスある教育・研究のリーダーとなるためには、自らにも挑戦を課すつもりだ。