健康であることの大切さ、有難さを誰よりも知っている。40代で米国での臓器移植を経験。死ぬか生きるかという日々を彷徨った。勤務先であったモービル石油は「どんなことがあっても解雇はしない、頑張れ。今までの貢献に応えたい」と見守ってくれた。復帰後、「与えられたジョブで一生懸命やって成果を出したことを認めてくれただけでなく、リターンマッチの場まで与えてくれた。外資系企業にも情があるものだ」と痛感した。
MBA留学へのチャンスは、実は2度あった。だが、いずれも『病気』が立ち塞がっ た。最初は、大学の卒業時。「私費留学でも」と米国の著名ビジネススクールを受験。見事パスしていたが、母親の『病気』で断念せざるをえなかった。2度目はモービル石油に入社して5年目のこと。社内のMBA派遣試験をクリアし、いつでも留学できる環境を整えていた。だが、今度は自分の『病い』が運命を変えた。「腎臓に遺伝性の病気がある。健康状態を考えると、海外ではなく国内のビジネススクールにしてほしい」と会社に要請された。結局、KBSを選んだ。
「自分の苦手な分野に挑戦してみたい」。ビジネススクールでは、徹底して勉学に励んだ。標的はコンピューターと数学。「外資系企業で必修とされる2つを修得し、財務理論を専攻することが最もチャレンジング」と思えた。
大学院での2年目は厳しい日々が続いた。「本当に苦労した。もう本当に勉強せざるを得ない状況としかいいようがない。1日に睡眠は4時間程度であとはすべて勉強という生活が10カ月は続いたのではないか」。KBSに在籍した1980年代半ばは、まだパソコンは8ビットの時代だ。ハードのレベルがまだ低かったこともあり、論文のためのシミュレーションをするにもかなりの時間を要した。
だが、どんなに辛くても「非常に楽しい有意義な時間を過ごしている」という確信があった。「優秀でユニークな教員、学生。知的刺激が溢れているだけに、自ずと勉強をやらざるを得ない環境があった」と振り返る。
仕上げた修士論文のタイトルは『多通貨ポートフォリオの最適活用モデル(8ビットPCでの)』。多国籍展開する企業にとって、余裕資金をどのマーケットで運用することが全体最適になるかを解き明かした。同時に在籍したていたモービル石油に対する大いなるプレゼンテーションでもあったといえる。
KBSを卒業後、希望通り財務部門に異動。財務企画課長を経て、関連会社の事実上の財務責任者を任された。実務に精通すればするほど、ある思いが込み上げてきた。
「自分が書いた論文は、かなり的を得射ているという自信がある。このプランを是非ともトライアルさせてほしい」と。だが、会社が出した答えは『No』。「よく理解できるが、会社のポリシーは変えられない」という理由であった。
それでも、1年後に会社は違うチャンスを与えてくれた。「モービル石油の親企業であるモービル・コーポレーションを東証に上場させたい」という提案を快諾。スタディグループのメンバーとして参画するよう指示が出た。プロジェクトでは、ビジネススクールで学んだすべての知識やスキルを駆使。見事上場を果たした。「株主価値の向上に貢献できた」と自負する。
その後、モービル石油は親会社がエクソンに吸収合併。日本法人もそれに伴い名称変更することとなった。「合併後の会社は、以前のモービルとは似て非なる企業。もはや教育と人材開発に熱心な企業という面影はない」。遂に2000年5月、同社を退社。
大手システムインテグレーターへと転身した。
「50歳を超えて再就職の機会を与えてくれた現在の会社には多大な恩義を感じる。貢献できる部分があれば最大限に尽くしたい」と意気込んでいる。「石油元売り業とシステム産業では、主たる業務内容は異なるが、強大な親会社を持つ企業経営という観点では共通項も多いはずだ」。04年2月には、母校KBSの同窓会長も引き受けた。
「自分にチャンスをくれた存在に感謝するとともに、好意に応えていきたい。母校と日本の社会に少しでも貢献する手助けができれば嬉しい」
生きる喜びを実感するかのように、石渡氏の『挑戦』はまだまだ続く。